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罪なき者がまず石を投げよ。ヨハネ福音書8章1節から11節に見る、偽証する者と私刑への戒め

要約:情状酌量と偽証による私刑と解する

 ヨハネによる福音書8章1節から11節は謎の多い聖書箇所であり、キリスト教の中でもその扱いをめぐって、過去には意見の対立があった。しかし現在では意見の一致をみており、聖書のほとんどには、今も8章1節から11節として記載されている。

 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

ヨハネによる福音書8章7節・新共同訳聖書 新約聖書(amazon)

 この言葉は、イエスの慈悲深さを表す逸話だとして、信徒達には好意的に受け入れられる場合が多い。一方、非信徒からは法律を無視した非現実的な、いかにも宗教的で秩序破壊的だと見られることもある。

 道徳的、倫理的な話題の時によく持ち出され、人に対して独善的に裁くのを止めろ、という主張をするのに用いられたりする。まったく理解していない人が、── 法律違反で罰せられるとまではいかないまでも ── 罪悪感のある行為を自己正当化するための文脈でこの言葉を語ることもある。

 ネット上に見られる、この聖書箇所を取り上げたいくつかの記事は、多くが牧師の説教として発表されているものである。それゆえ、その慈悲深さの面を強調しようとする向きが有り、少し「甘すぎる」ように私には感ぜられる。

 本来、この部分は「情状酌量の余地」および「扇動者による不当な私刑への警戒」についての読み方であると思われたので、そのことを検討してみたい。

 そこで、この記事では8章1節から11節の解釈をするにあたり、7章~8章12節以降の文脈、また旧約聖書出エジプト記の記述などを確認して理解の助けとしたいと思う。

ヨハネ福音書8章の前提知識

 ヨハネによる福音書8章の場面は、イエスの元に罪を犯した女性が連れてこられ、群集がそれを取り巻き、今にもその女を石打ちの刑にしようとしている。という場面である。

 この事態を扇動したのはファリサイ派とよばれるユダヤ教指導者達である。彼らはイエスを逮捕する口実を見出すためこの事態を引き起こした*
*ヨハネによる福音書8章6節

 女が犯したとされる罪は「姦通」で、また、現行犯であるとユダヤ教指導者たちは主張している。この罪はモーセの律法で裁くならば石打ちによる死刑であるが、当時のローマ法では、ユダヤ人が人を死刑にする権限が無かった*
*ヨハネによる福音書18章31節

 つまり、その女を死刑と判定しなければモーセの律法に、死刑にすればローマの律法に違反するため、どちらに転んでもファリサイ派指導者たちの得になる結果 ── イエスの教師(ラビ:宗教指導者)としての権威失墜か、逮捕 ── が狙える状況を作ったのである。

 

備考:後年の加筆であるという点について

 このヨハネによる福音書8章1節から11節を軽視し、聖書から除外する信徒も存在する。その理由としては、この個所だけ文体が違い、またラテン語の写本の中にもあったりなかったりするからだと言う。

 こうした後年に加筆されたとみられる部分は聖書のなかにいくつかあるが、その重要性や、古代ラテン教父たちにもよく知られた逸話であることなどから、その真実性が担保されているとみて、この個所に挿入されている。

 また、この話は前後の文脈の具体例としての意味があって、この個所に挿入されているという見方もされている。

罪なき者だけが石を投げよ

 さて、前提として述べた場面において、イエスは冒頭の有名な言葉を言い放つ。

 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

ヨハネによる福音書8章7節・新共同訳聖書 新約聖書(amazon)

 そして、この言葉によって、罪を犯した女を裁こうとしていた群集はいなくなり、続いてこのように言う。

 イエスは言われた「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。」

ヨハネによる福音書8章11節・新共同訳聖書 新約聖書(amazon)

 ここまでで注意しておきたいのは、まず連れてこられた女は間違いなく罪人ではある。ということだろう。

 この当時の女性が非常に弱い立場にあったことなどから、この個所を無理やり行われた姦通であったのだ。と言い、であるから無実の女を裁いてはいけないのだ、とする説教がなされることがある。

 しかし、続いて言われる11節の言葉を見れば、イエス自身が「もう罪を犯すな」と言う以上、この女に罪がないとするのは、都合よく罪を見落としをしているようにも思われる。

女は罪人である。が、それは真実か

 では女は確かに罪人であるとした場合、次の様な説教がされることがある。

 女はたしかに律法で死罪に値する姦通の罪を犯したが、イエスはそれをも許され、群集に「罪なき者だけが石を投げよ」と言った。とする、イエスの赦しの強調と、人間が裁くことを戒めるような説教である。

 私はこれにも同意しがたい。これはキリスト教を新約聖書に傾斜しすぎて理解しているように思うからだ。つまり以下の様に示される神の性質の重視が過度に行われている。

  あわれみ深く、情け深い神、怒るのに遅く、恵みとまことに富み、

旧約聖書:出エジプト記34章6節

 しかし、その直後に続く節で、神の性質についてはこう言われている。

   恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべきものは必ず罰して報いる者。

旧約聖書:出エジプト記34章6節

 このように見ると、キリスト教の神は憐み深さだけを強調して、罰すべきものは罰する側面を削ぎ落してはならない。 

 旧約の神を怒りと妬みの神、新約の神を愛と憐みと赦しの神と分離しようという言説は端的に間違っている。

 だからこそ、この個所において罰すべき者として連れられてこられた女は、本当に罰すべき者であるか。それを考えねばならない。

 すなわち、この逸話において登場する罪を犯した女、その罪が私たちのイメージする、またファリサイ派のユダヤ教指導者たちの言う「姦通」であったか。という点は疑ってみる必要がある。

 この聖書箇所については、女が間違いなく姦通の罪を犯したという前提で語られている説教が多いように思う。その方がイエスが赦しを行った個所としてのイメージが良いからだろう。

信頼に値しない証人

  罪を犯した女をひっ捕らえてイエスに突き出したファリサイ派の指導者たちについて、その内心はこのように書かれている。(なぜそんな人の内心が分かるのかというツッコミは正当であるが我慢してほしい。)

 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。

ヨハネによる福音書8章5~6節

 見ての通り、ファリサイ派のユダヤ教指導者は信頼ならない証人である。彼らの目的は正義の裁きではなく、イエスを貶めることにあり、何かしら罪を犯した女は、都合がよかったのでイエスの元に引っ張ってこられている

 非信徒にとっては少しつまづくところではあるが、イエスが神の子であるなら、当然彼らが何を考え、またどのような嘘を言っているかを見破ることくらい出来るだろう。これは一種の奇跡的なものであって、人間の洞察力、技術によるものではない。

 「イエスは本当に無条件で真実を見破れる」と解する前提が存在している。ここを議論しても意味はないので、非信徒にも一旦そのように理解してもらいたい。

 そんなイエスがまったく罰する気が無さそうなのを見ると、私たち読者が、ファリサイ派の人々が何か嘘を言っている。偽証しているのではないかと疑ってみる、動機としては十分である。

不当な私刑。語られない真相。

 この事態について、例えば、女の事情をこのように想定してみたらどうだろうか。

 

 ── 当時の世界では女性は父や夫の所有物の様に扱われるのが常であったため、まだ年若い(現代なら)少女とも言える女が、意思に関係なく壮年男性の妻になるということはままあったことである。また、その扱いはよくないこともあった。

 そんななかで女が、同年代の男子に対し恋愛感情を持ち、二人きりで会っていた。その関係がどの程度だったかは分からないが、肉体関係に関しては無かった。──

 

 あくまで真相の分からない仮定である。

 このような場合、ファリサイ派の人々が「姦通の現場を抑えた」と言うのは偽証であろうか。たしかに浮気ではあろうし、現代でも疑われる原因になる問題行為であるのに違いないが、いきなり法廷処罰 ── しかも死罪 ── となるかというと…情状酌量の余地がある案件とも思われる。

 当時の世界観は、現代日本の感覚で言うところの、一緒に食事まではOKでキスからはアウトなどと言う生易しい基準ではない。婚姻関係に無い男女が二人きりで一緒にいるような事態は既に道徳的、倫理的にアウトであり、死刑判定すら出る可能性があったのである。

 しかし、今回の事態が紛れもなく「姦通」の罪であれば、相手の男が一緒に連れられてこないのは明らかにおかしい。律法にはどちらも死罪であると書かれているのだから、また、その現場(肉体関係)を見た二人以上の証人が必要である。さらに、町の門(当時の裁判の場)で判決を下す決まりも無視した行為である*

*申命記22章22節から24節

 結局、この事態はモーセの律法(神、宗教の法)にもローマの法律(地上、国家の法)にも違反した不当な私刑行為であった。

 イエスが「罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい。」と言ったのは、最初に石を投げる二人は証人であるという決まりだったからである。ところが、ファリサイ派の指導者も、群衆たちの中にも石を投げる者はいなかった。

 彼らに罪の意識などという殊勝な考えがあったと考えるのはやはり甘すぎる。

 誰も自分がこの目で見た。と神の前で証言することができない。つまり自分が証人となって死刑を執り行うのを恐れたのだ。

 こうして不当な私刑はお開きとなった。

 最後に女にも何かしら罪があったことは明示されているが、ただイエスが「もう罪を犯してはならない。」とだけ言われている。女の罪について真相がどのようなものであったのかは一切語られず、その女の罪の重さがどの程度であるのか、そういった好奇心からくる詮索を許さないかのようである。

 

 当時の人々がグラデーションのある罪の概念において、全て死罪とすべしとまで思っていたかと言えば、そんなことはないであろう。どんな時代や場所、文化においても、倫理観や道徳観のグラデーションは存在するものである。

 以上のことから、この逸話は「情状酌量の余地」についてと「扇動者による不当な私刑への警戒」とも読めるだろう。

偽証の疑惑を連想させる7章51節と8章17節

 さて、ここまでは女に好意的な方向性で書いてきたが、聖書の中に真相が語られぬ以上、女が良い旦那に恵まれながらも、救いようのない不貞行為を働いたのではないかという主張も排除はされないであろう。── それが死刑に値するかはともかく ──

 ここについては掘り下げようとしても、真相はやはり分からないのである

 そこで一旦8章から離れて、この話の前にある7章51節を見てみよう。

 この場面では、イエスを捕らえようと思っているファリサイ派の人達が、イエスを危険思想を広める人物であり、民衆を扇動していると決めつけている。そして、それに対して、以前イエスを訪ねて教えを願ったニコデモという人物が、イエスを擁護しようとして次の様に抗議する。

   「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。

ヨハネによる福音書7章50節

 これはなかなか皮肉の効いた配列ではないであろうか。聖書を拾い読みし、聖句を抜き出して読んでいるときは、この文脈を知らずに読んでしまうことになるので注意しなくてはならない。

 今回問題にしている罪ある女もまた、「本人から事情を聞き、何をしたか確かめたうえで」判決を下されなければならない。しかし、聖書の中に書かれているこの逸話において、女は信頼のおけない証人たちと群集が「姦通の現場で捕らえた」として引っ張って来ている。

 彼らは十戒を元に、自分達で拵えた自分達の律法を自分達で無視しており、それを仲間であるニコデモから指摘されているのである。

 また、8章17節にはイエスが自分を裁こうとするファリサイ派の指導者たちに言う。

   あなたたちの律法には、二人が行う証は真実であると書いてある。

ヨハネによる福音書8章17節

 結局、罪あるとされた女の前に、石を投げる最初の二人の証人は現れなかったのだ。

偽証もまた罪である。イエスは何を書いていたか

 イエスはこの事態の最中、かがんで何やら地面に「指で」書いている。神が指で書くもの、これは十戒のことである*。そして十戒には隣人に対し、偽りの証言をしてはならない**。と書いてある。
*出エジプト記31章18節
**出エジプト記20章16節

 古代アテナイから継承されているローマの裁判では、原告の告訴状を読み上げ、被告に認否を問うというお決まりがあることや、イエス自身が罪状書きを書かれて磔になったことを考えると、この場で書かれた十戒の意味は、君たちの方こそ十戒に反した行いをしているだろうという告訴状あるいは、彼らに対する罪状書きだったと解することが出来る。

 この「指で」を見落として、ここは謎ですとか、彼ら群集の個別の罪を書き連ねたとか、ヘロデ(当時のローマ皇帝)も姦通してると揶揄したとか、そのようなことを書いたのだと説教されている場合もある。

 しかし、私は十戒であると解した方が7章から8章20節までの一連の流れがしっかりと立ち上がって来るように思う。

おわりに

 ヨハネによる福音書8章12節以降についても書こうと思ったが、長くなった上に論点がブレるのでここまでとする。

 なお、最後にこれは礼儀として書いておくが、私は現状、洗礼を受けて教会生活を行う世間的に認められるクリスチャンではない。元々は日本人らしいぼんやり仏教&神道ミックスであった。しかし、今信仰は何かと聞かれたらキリスト教と答える。それだけでいいとも思っていないが…。

 夏目漱石が慕ったケーベル博士の言葉を引用する。

 私は自ら、私はキリスト者である、と言ってはならない。ただ、私はキリスト者たらんことを努めている者である、と言うことだけは許される

岩波文庫『ケーベル博士随筆集 』P51

 これは逃げのために使っていい言葉ではない。文脈を間違えてはならない。本当に努めなければならない。今のところわたしは平信徒以下である。

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