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伊藤計劃『ハーモニー』に見るディストピア的幸福論の考察。結末における宗教的幸福論の構造肯定と霊性排除

概要:好きな作品の結末の理解について

作中の結末に関するネタバレがあります。

私は好きな漫画を5つ上げるなら、故伊藤計劃氏原作、三巷文先生作画のコミカライズ版『ハーモニー』を必ず上げたいと思う。

『ハーモニー』が物語の結末で描こうとしていたものについて、私なりの理解を持っているので、本記事はその理解について、説明の助けになった著作物と合わせて紹介したい。

あらすじでワンクッション入れたのち、まずは結論を書き、その後説明に入る。

   

前提:対象本とあらすじ

著:伊藤 計劃
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著:三巷 文, その他:伊藤計劃/Project Itoh
¥594 (2023/07/06 21:17時点 | Amazon調べ)

本記事は既に原作、もしくはコミカライズ版の『ハーモニー』を見た人を前提にして書いている。なので、詳しい筋の確認などは行わないが、未読の人向けに公式のあらすじをまず以下に置いておく。

 

21世紀後半、“大災禍”と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した―それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰に、ただひとり死んだはずの少女の影を見る―『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

 

結論:宗教的幸福論の構造は肯定するが、霊性は排除する

この物語は、宗教的善性による社会構築への反発と、宗教的幸福論の構造の肯定という、矛盾を抱え、あるいはその間で葛藤した末に、霊性を排除して、科学的なアプローチによってそこに到達しようとしている。

 

物語の最終局面、ミァハとトァンがコーカサスのバンカーで語り合う。そんななかミァハは自身がハーモニープログラムの遂行を決心した理由をこう語る。(あえてコミカライズ版から引用します)

それでも意志を 意識をなくすべきじゃないって
環境がその場しのぎで人類に与えた機能をなくすべきじゃないって

わたしはそんなのおかしいと思った

(中略)

意識であることをやめた方がいい
人間であることをやめた方がいい
わたしがわたしであることをやめた方がいい

原作:伊藤計劃 漫画:三巷文. <harmony/>ハーモニー4. 角川コミック・エース.150-151

この言葉に到達するまでの思考は、宗教的な理解が必要だ。

そしてまた、この物語の結論全体を理解するに必須となる。

 

キリスト教における我意の捨離

ブレーズ・パスカルは物理学者、数学者であると同時に、敬虔なクリスチャンとしても知られている。

彼の唯一の遺稿著作『パンセ』において、キリスト教信仰者の立場から信仰の真髄を語り、「自我は憎むべきものだ」としている*
*パスカル『パンセ』断章455

また、彼は他の断章でこのように述べる。

 

人は我意を投げ捨てたその瞬間から満足する。それがなくなれば、人は不満であることはできない。それがあると人は満足していることはできない。

パスカル著 由木康訳.『パンセ』断章472. 中公文庫. 336

 

もちろんパスカルだけではない。しかし、ここで様々な人々の名前を列挙して、著作を引用するのは止めておこう*。大本の聖書箇所だけでも十分だからだ。
*とはいえ、14-15世紀の修道士トマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』だけは特に示しておきたい。

 

34 それから、群集を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
「わたしの後に従いたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」

新約聖書 マルコによる福音書8章34節

あるいは

39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失うものは、かえってそれを得るのである。

新約聖書 マタイによる福音書10章39節

 

こうして自我を排した信仰者は、イエスを頭とする一個の身体として、自己を定義し直すというのがキリスト教の思想的な「我意の捨離」が示すところである*。そしてそれこそが真の幸福へ至る道だと説く。
*コリントの信徒への手紙12章27節、エフェソの信徒への手紙4章16節

 

カルト的な誤解への注釈

(本筋とは関係が無いので、読み飛ばしても良いです。)

自我を捨てて従えという言葉を聞くと、日本人はカルト宗教的なものを感じるだろう。実際にそうした悪用が多くされている部分ではある。

カルトや異端と、まっとうな宗教を分別することは実に困難だ。いや、実際には、それは個々人の信仰者にはできるが、社会的なコンセンサスとしてそれを成り立たせることが出来ない。

少なくとも、まっとうな一神教の宗教では、偶像崇拝の禁止が存在し、それを正しく理解しているならば、たとえ自我を捨てたとしても現実社会で他の人間や組織に盲目的に従うという選択肢を取りえない。なぜなら従う対象が神という高次存在に限定されるからだ*。キリスト教の問題のおおくは、その解釈を誤ってきた歴史上の教会と信徒達によるところが多く、信徒たち自身がつまづきの石となってきた。
*ドイツ教会闘争の歴史を知ると理解の助けになる。 

宗教的幸福論の構造

「自我を捨離して空となった部分に、神の霊を招くことによる幸福感。神のそば近くにいるという感覚、信仰をもって喜びとする。」これが宗教的幸福論、または有神論的実存主義が最終的に語ることである*
*『幸福論』は世界三大幸福論という俗っぽい名前がついているが、アラン、ラッセル、ヒルティのものが名著として存在する。ざっくり特徴を宣べると、アランは自己啓発的哲学的。ラッセルは科学的論理的。ヒルティは宗教的精神的。有神論的実存主義はキィルケゴールが代表的な人物としてあげられる。

 

こんなことを言われて納得と理解を即座に出来る人間はいない。

非信仰者なら当然だし、信仰者にしてもその信仰の入り口においては分からないのである。分からないけれども選ぶということが、信仰の本質だ。(驚くかもしれないが、それはイエスの時代でも中世でも、19世紀でも現代でも同じである。彼らは常に時代の最先端にいたのだから…)

 

しかし、宗教的幸福論はその「まず信ぜよ」を超えた後は、経験的に幸福感を覚える。そうして何度もそれと触れ合うことで、固く信仰に立つようになる。そういうシステムだ。

これは自己暗示のようなものではなく、もっと長いスパンで自分が、実際に満足と幸福感を得るという体験を通した一種の修行である。 

キリスト教の教えとは、最初がもっとも困難で、「信じろ、そうしたら従って行うことになる。あとは恵みを実感する経験をせよ。」という、狭き門の先は平らな道だ。と説くものである(いや、それが難しいんだけれど)*
*禅はこれとは逆のアプローチだ。最初は信じなくてもいいから、やってみて、感じたものを信じて深めよ。である。現代で禅が受け入れられているのは、その方が人間にとって理解も納得もしやすいからであろう。しかしその後、悟りに至る道は困難だ。

 

快楽的幸福論は地上のどんな喜びも結局は無意義に消え去る論外なものであるし、どのような哲学的あるいは科学的幸福論も、しょせんは人間の拵えたもので、決して人間を本当の幸福感に導くことはない。それこそ自己暗示の部類になるだろう。

唯一、愚かにさえみえる宗教的幸福論だけが、最初の「それを信じきる」という一点だけを了承すれば、間違いなく人間を真の幸福感に導くのだ*…と。
*マタイによる福音書7章13-14節

 

もし、あなたは「それ」を、神では理解できないなら「趣味」とか「推し」として思考してみるがいい。生涯「それ」を好んで離れず、また「それ」の方も、生涯自分が信じた時と同じままに、自分にとって幸福感を与え得るもの。である。

死の間際までそうしたものを持てる人の事を、そのような人生を、現代の日本人でも羨望を持ってみるだろう。しかし、地上の趣味や人間にそれを本当に託せるか。よく吟味しなくてはならない。

それが、どんな状況に自分が置かれても「幸福」という「希望」になり得るかと。

地上の事物にその荷は重いだろう。偶像はいつか必ず崩れ去るものだからだ。それは非常に不安定な幸福の土台である*
*マタイによる福音書7章24-27節

また、宗教的幸福論は認識できないものに賭けるような行為だと言われる。天国の存在を信じて来世のために現実世界での幸福感を犠牲にするのだと。しかし、実際はそうではない。

単に地上の快楽から得ていた幸福感を捨て、信仰生活から得られる幸福感に切り替えただけである*
*これを勘違いして始終お祈りばっかりしているのは信仰道楽であって、愚かな行為とされる。

ディストピア的幸福論 

『ハーモニー』ではこの宗教的幸福論の「構造」は全く肯定している。すなわち、第一に我意の捨離。第二に「神」を頭とした一つの全体となる事。第三にその状態そのものから幸福を得る事。これらの条件をハーモニープログラムは満たそうとする。

しかし同時に、その霊性、宗教性を排除しようと試みるのである。

 

ミァハは自殺未遂以前、周囲の宗教的善性による社会を否定していた。嫌ってすらいた*
*非信徒から見た「キリスト教的愛」をやたらと強調するような信徒コミュニティへの忌避観にも似ている。

一方、「無意識」という天国の疑似体験を通して、最終盤では宗教的幸福論の「構造」を受け入れている。ただし、その実現方法は医療・科学によるアプローチを用いる。

これはつまるところ、故伊藤計劃氏自身が、宗教的幸福論の構造を理解し、肯定しながらも、その幸福論において絶対不可欠である「それを信じきる」の「それ」、すなわち神を排除しようという試みでもあったのではないだろうか。

 

そして実際、物語は最後にハーモニープログラムを発動するに至る。神への反抗は、「幸福論」は、確かに一種のディストピアを伴いながら達成された。

 

真の意味での自我や自意識、自己を消し去ることによって、

はじめてシステムと人間は幸福な一致に達した。

原作:伊藤計劃 漫画:三巷文. <harmony/>ハーモニー4. 角川コミック・エース.198

一個の身体として見立てた人類の幸福の頭を、キリスト・イエスから、ハーモニープログラム・システム(科学)に挿げ替えた。

ハーモニープログラムの起動によって、人類は一個の巨大な「全体」となり、ハーモニープログラム起動前の宗教的善性で覆われた、歪で不完全なものではなく、システマチックで無機質でありながら、それはあたかもキリスト教の言うところの「神の国」として地上に立ち現われる。

 

彼ら到達した人類にとっては「全てが自明であり、選択することなど何ひとつ無かった」。

それは楽園追放より以前、知識の実を齧る前のアダムとエヴァのように。

 

いま人類は、とても幸福だ。

とても。

とても。

原作:伊藤計劃 漫画:三巷文. <harmony/>ハーモニー4. 角川コミック・エース.207

故伊藤計劃氏が考える。人類にとって「これこそが望みうる最高に天国に近い状態」へ至る方法論は、確かに聖書が最終目的としていた地、人間の楽園への帰還を疑似的に果たして、この物語は幕を閉じる。

 

おわりに

当初『ハーモニー』を読んだときは、その結末を単なるSFのディストピア的なものとしてだけ理解していました。しかし、その後キリスト教を詳しく知ろうとしていく過程で、この物語の根底にある宗教的な視点とそれに対する一種の反発に気づきました。

ネット上であまり宗教的観点からの感想がないような気がして、長々と書くことにしたのですが……。私はSFについてはまったく門外漢、素人、浅学菲才。理系もからっきしでありますので、理解が浅いかもしれませんが、どうかその点ご容赦下さい。

 

それにしても彼は絶望的に人間の意志能力を信頼していないが、その成果である科学を信頼しているように思います。

宗教的幸福論の実現を、人間という総体の意志が成し遂げられる未来を否定し、システマチックに科学の力で成し遂げようと試み、その結果が、ディストピア的幸福論。しかし、それは宗教よりもさらに「神の国」的な世界の実現に至った。神を抜きにして。

まるで、「あなたが居なくても、それくらいのことは出来ますよ」とでも言うかのごとく!

あるいは、ミァハという神の思い描いた回答(宗教的幸福論)を肯定しながら、トァンがそれを与えなかった(物語がそれを排除した)のは、まさに象徴だったのかもしれない…。

あぁなんという不信仰! なんという神への冒涜! 思想的スケールの大きさに痺れます。

 

素晴らしい才能と偉大な業績を残された故人に敬意を表して。どうか安らかに。

追記: …いや、彼の思想では死者に対して「安らかに」、なんて宗教的な言葉はそぐわないのかもしれない。彼が彼なりの「幸福論」に殉じて死んだなら、彼は医学的に、科学的に、システマチックで無機質に死んで無になったのだろう。

 

参考文献

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