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新連載『河畔の街のセリーヌ』とその時代背景

日之下あかめです。

マッグガーデン社刊行の「コミックガーデン」にて、新連載『河畔の街のセリーヌ』が2022年1月5日よりスタートとなりました。マグコミというWebでは1話が無料公開。その後雑誌の一か月遅れで順次一話につき一か月間公開となるようです。

河畔の街のセリーヌ MAGCOMI

著:日之下あかめ
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今作では時代についての情報は、職業関連に重きをおいています。その為、作品内ではそれほど時代状況を「文字情報」で説明することはしていません。── 今のところは ──

もちろん娯楽漫画ですから、事前情報なしにただ楽しんでいただければOKなのです。それが可能なように描くよう担当編集氏にもよく注意を受けております。

ですが、ちょっと知識入れてから読みたいなという読者さんの為に、本作の時代背景を紹介しておこうと思います。特に政治的な時代背景のみをさらっと。

18世紀末から19世紀半ばまでのフランス・パリ

フランスの激動期である18世紀末から19世紀前半。ここを抑えておかないと、この国が良く分かりません。ですが本作との直接的な関わりは薄いので、さらっと行きます。

まずは18世紀末、1789年に【フランス革命】始まる

絶対王政によりブルボン家(ルイ何世みたいなの)が絶大な権力を誇っていたフランスで革命発生。マリーアントワネットがギロチンに処された革命です。

まったく安定しなかった第一共和政

ブルボン王政を打倒したのち、共和制を樹立します。しかし革命後の混乱とクーデターの発生など、安定しません。そんな中現れたのが後の皇帝ナポレオン・ボナパルト。

19世紀初頭。皇帝ナポレオンによる第一帝政の時代へ

国内の混乱を収めたナポレオンの支持が高まり、その後皇帝になります。王政を打倒して一時民主的になった後、形式的とはいえ、国民投票で独裁的統治者を擁立しちゃったわけですね。

しかし、皇帝ナポレオンの時代はそう長くありません。10年程度で幕を閉じてしまいます。

立憲王政の時代。 復古王政→7月革命→7月王政→2月革命

ここでブルボン王家が復活します。以前のような絶対王政とは違い、立憲王政です。ところがこれも15年程度と短命に終わります。【7月革命】により打倒されます。

次の王家はオルレアン家で、【7月王政】といわれます。こちらも立憲王政です。こちらは18年続いて1848年に【2月革命】によって打倒されます。

ここまでがおおよそ18世紀末から19世紀前半までのフランスです。この激動っぷり……フランスの近代史は本当に革命の歴史です。

このあとわずか4年で終了する第二共和政が存在します。そして結局またクーデターによって権力を確立する男が出現します。皇帝ナポレオン・ボナパルトの甥っ子ナポレオン三世。第二帝政のスタートです。

19世紀後半1870年までのフランス・パリ

1852年ころから1860年ころまで:ナポレオン三世の威光輝く

クーデターで権力確立したナポレオン三世は最初、権威主義的な方針をとりました。

まず、出版や言論の自由に規制をかけましたが、これは第二共和政の政治的混乱を安定化したことで受け入れられました。さらに、パリの都市開発に着手します。

これにより経済的に発展し、今日見るパリの景観が創出されていくことになります。強権的ではありましたし、批判もありましたが、確かに功績も打ち立てることに成功していたと言えます。

この期間に属する1855年、一回目のパリ万国博覧会が開催。ロンドンとの世界の首都争奪戦が起きていた時期を象徴します。

ナポレオン三世の威光に陰り。より自由主義的な体制へ

メキシコ出兵などの外征の失敗などにより、ナポレオン三世の威光にも陰りが見え始め、権威主義的体制から、より自由主義的な体制へと移行していきます。議会に譲歩したり、世論の支持を重視したり。

1866年、二回目のパリ万国博覧会が開催。ここで日本が初参加します。

1870年、ついに【普仏戦争】がはじまります。

1870年:普仏戦争勃発

当時はまだドイツという国家はなく、現在のドイツ北部からポーランドの一部にあたるプロイセン王国が存在していました。この普仏戦争でフランスは敗北します。

ナポレオン三世がプロイセン軍の捕虜になったことを受けて、パリで無血クーデターが発生。これにて第二帝政は終わりです。ところがこのあと大混乱が発生!

1871年パリ・コミューン。内乱の勃発

第二帝政崩壊のごたごたの中、フランスの政府機関がヴェルサイユに退避したことで、国家機能が停止する無政府状態が生じます。ここで市民が独自議会を設立し、革命的自治政府パリ・コミューンの成立が宣言されました。

非常に複雑な体制なので、ここでは説明を省きます。ウィキペディアでちょっと恐縮ですが、手軽さを鑑みてリンクを置いておきます。

パリ・コミューン Wikipedia

労働条件の改善など労働者階級の意見が反映され、政教分離や義務教育など重要な方針が示された一方、政治的にはほとんど機能せずにこの体制は終わりました。

ヴェルサイユに退避していたフランス政府の軍が、パリ奪還へ動き、パリ・コミューンとの間で市街戦へ突入。「血の一週間」と言われる凄惨な弾圧により多数の死傷者、逮捕者を出してパリは政府に奪還されました。

これらの過剰な弾圧は、しかし多くのフランス国民から政治的安定をもたらすとして支持を受けました。その背景には、パリ・コミューン内部の過激な共和制主義者、共産主義者、社会主義者への反発があった為と言われます。

そして時代は三度、共和制へと変わっていきます。

1871年以後、第三共和政・初期のフランス・パリ

第三共和政・初期のパリは何と言ってもその政治体制が特徴的。最右翼から急進左翼までがひしめく議会には、王政復古をもう一度と提唱する王党派や、ボナパルティスト達(皇帝派)が入り乱れていました。

当時の王党派と共和派の分断は、現在の右派左派とは比にならないものだったようで…といっても、2022年現在、右派左派の分断は苛烈になっており、さらに進むと同じような状況と言えるのかもしれません。

とにかくも、そうした不安定な政治状況で第三共和政はスタートし、初期には危機もありながら、結局は1940年第二次世界大戦でナチス・ドイツに占領されるまで、70年続く長期体制となります。

1870年代後半のフランス・パリ

第三共和政初期、パリ・コミューン内乱で破壊されたパリ市街地を修復するなどの復興事業により経済は好調に推移しますが、1873年に金融危機が発生。その後世界には1879年まで大不況期が訪れます。

恐慌の震源地となったアメリカよりは、幾分早く立て直しが進んだヨーロッパ諸国・フランスにおいても不景気は断続的に訪れました。資産家達は少し景気が戻ったとホッとしては、また借金を背負うという不安定な時代でもあります。

とはいえ、全体的な市民生活は1860年代の第二帝政以後着実に上昇を続けました。中でも象徴的なのは、貴族や王族ではなく、弁護士や起業家といったブルジョワジー達。

後に発展を遂げる資本主義社会のパワーバランスが形成されていくことになります。人々はブルジョワジーへの憧れを強くもち、「ブルジョワたるもの」といった価値形成も進みます。他方、彼らのふるまいを批判するカリカチュアなども多数描かれるのが、いかにもフランス的です。

ここが作中時期にあたります。

円熟したパリへ

芸術の世界ではサロンと呼ばれるアカデミックな公的美術展覧会が権威を持ち、その観賞は市民の娯楽の対象でもありました。ここでなかなか認められなかった芸術家集団こそ、後の現代美術に繋がる潮流。印象派の画家たちです。

文学世界においてはバルザックやヴィクトル・ユゴーらの後を、ゾラを代表的とする自然主義文学作家が進み。あるいは冒険SFの祖とも言われるジュール・ヴェルヌなども活躍。またゴングール兄弟という、当時のパリを日記という形でその生涯に渡って書き綴った作家もいます。

もちろん、ジョルジュ・サンドのような女性作家の活躍も見逃せません。サンドの後に登場したデルフィーヌ・ド・ジラルダンなどは、当時多数刊行されるようになった新聞の一つで、女性であることを隠して(公然の事実ではあったが)新聞に言論記事を書くなどしました。

様々な雑誌が刊行されるようになり、パリの街のあちらこちらにあるキオスクで販売されます。

1889年には三回目のパリ万国博覧会が開催。ついにエッフェル塔が建ちます。「映像の世紀」なんかが好きな人には見慣れた映像でしょうが、歩く歩道なんかが有名です。

やがて世紀末、アール・ヌーヴォーと言われる芸術の新潮流に彩られつつ、ベル・エポック(美しい時代)を迎えたパリはまさに円熟した都市として、世界中の人々から憧れをもって見られました。

そして、20世紀に入ると、1914年の第一次世界大戦へと世界は突き進んでいくことになります。

著:日之下あかめ
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