日之下あかめのサイト

ヨブ記の解説・ヨブ記におけるヨブの三つの姿。ひどい話ではないという考え方になる理由

ヨブ記について考える

最近某SNSでヨブ記が話題になっていました。リプ欄や引用を見ると「ヨブ記の理不尽さが面白かった」とか、「神ひどすぎヨブかわいそうすぎ」といった感想や意見があります。

これらはヨブ記を読んだ人々の一般的な受け取りであろうと思います。実際、クリスチャンでもヨブ記の受け取りは困難であり、解釈も一様ではありません。私も最初、この書のせいで「神は人間の心が分からない」という言説が生まれてるよなと思っていたのです。

しかし、そうした感想は最初の印象にすぎない場合が多くあります。

聖書は何度も読み返したり、個々人のタイミング次第で解釈がゆっくりと進んでいきます。特にヨブ記を理解するようになるのは信仰についての理解が進んでからになるでしょう。

つまり、信仰者のモノの見方をもってヨブ記を見ることが必要で、そうすると、この書は辛い現状にある信仰者にとっての慰めと、励まし、そして模範として信仰者の姿を描いている書であることが見えてきます。

辛い時の慰めを与える同労者

キリスト教の概念で特徴的なものに「同労者」というのがあります。

同労者とは、互いに励まし合い、助け合いながら共に生きる人々、共同体というものであり、イエスがあなたの同労者であるように、あなたもイエスの同労者になろうと励みなさい。という説教がなされることがあります。

人間は辛い時、単なる同情や、励ましよりも、自分と同じかそれ以上につらい状態にある誰か同労者が、それでも励まし共に立ってくれていることに慰められるものです。

さて、ヨブ記の主人公ヨブ、彼もまた同労者としての性質を持っています。

彼は家族がみな突然死に、自分は病に侵され、名誉は消え、富は失われ、さらには妻や友人たちから謂れのない非難までされるのです。

普通に平時を生きている人間が、これほどの事態に見舞われることは稀でしょう。しかしながら我々人間はみな、ある程度いろいろな苦難にあい、それぞれに苦しい思いをしています。それは他者と比較してどうこうではありません。客観的にみて些細な事と言われようとも、主観的にはとてもつらいことだってあるでしょう。

そんな時に人の心の慰めとなるのは、あなたの辛さを完全に理解、共感してくれる現実の友人、恋人、家族でしょうか。もちろん、それはいたらいいでしょう。しかし、たいていの場合はそうした他人を得るのは難しく、一定の共感すら得られないこともあるでしょう。

そんな時に、聖書の中にはヨブ(やイエス)がいるのです。

自分よりどう考えてもひどい状態にさらされている彼はしかし、あなたに「私の方がつらい」とは言いません。ただ、私たちがどう考えてもあいつの方がつれーなと認識させられるのです。

世界には戦争でヨブもかくやと言うほどの苦難に晒された人々が沢山存在してきたし、現にいまもいるでしょう。彼らにとってすら、ヨブは同労者たりえる存在として据えられています。

天と地の世界観理解から、回復の励ましを指し示す証言者

ヨブを苦しませることを、神はサタンに許可します。そしてさんざん苦しまされたヨブに地上で回復の報いを与えます。

これを見た人々はこう思うでしょう。

「死んだ子供の代わりに新しい子供を授けたからそれでOKってなんやねん!!!ふざけてんのか!」「やっぱ神は人間を理解してくれないんだなー」「不条理でおもろい」「最後中途半端に救わない方が良いんじゃないか」etc

まったくもってその通りな感想だと思います。ただ、信仰がある前提で聖書を読む人から見ると少しだけ違う受け取りになります。

キリスト教の世界観では、天と地の世界があり、死後も人格を保った形で人は天の世界に入ります。— もちろん天の御国の他に地獄や煉獄の概念があることは有名でしょうが —

ここで神の御心にかなう人は「高く上げられ」、あるいは地上で可愛そうな目にあった人々を神が憐れんで救い「十分に報いられる」と言います。

この十分に報いるというのが難しいところです…

ヨブの家族のように突然全員惨殺、圧死させられるというひどい目にあったとしても、その当事者たちが十分に報いられた、差し引きゼロ以上にしてもらったと思えるように、神は報いてくださるということになっているようです。

そんな方法があるのかと疑問に思いますし、何も具体的に記述がありませんからいまいち信ぴょう性がありませんよね。…しかし、そこは神なので、なんかいい感じに報いてくれるということなんでしょう。信仰ですから根拠や証拠を求めるものではありません。

さて、ヨブは地上にて全てを奪われひどい目にあわされました。そして、地上で埋め合わせのように新たな家族と富と名声が与えられます。

ここで終わりならば一般的な非信徒的ヨブ記感想を言うしかありませんが、これにとどまらないのです。

信仰者からすればヨブは死後、天に上げられ、どのような形でかは記述がないものの、取り上げられた元の家族たちに会うこと、取り戻すことができるということが「分かっている」のです。(信仰しているからそうだと信じられるという意味で)

そして、信仰上の考えとしては、地と天の世界は分断されているわけでなくシームレスであるがゆえに、「地上で取り上げられたものを地上で返されなければ意味がない」と神に文句を言うのは信仰者の考えにないわけです。

だから、そう考えると、

ヨブは元の家族を含め地上であらゆるものを失いますが、地上で新たな家族と倍するほどの富と名声を返され、さらに天においては元の家族をも取り戻すばかりか、苦難を乗り越えた者として神のそば近くに高く上げられる栄誉を受ける。
— 聖書にすばらしい信仰者としてその名が残り、聖書あるかぎり永遠にその栄誉が称えられ続ける — 

ということで、このヨブは報いられていることになっています。

地上でだけなら報いに不足があるように感じても、信仰的視点から見た場合は天と地両方のスパンでの判定となり、ヨブの人生は山あり谷ありだけど最終的にはめっちゃ山という証言になっています。

必ず神が報いて下さるという前提、すなわち篤い信仰があって初めて、私たちもヨブの回復を回復として認めることができるようになるわけです。

神がサタンを利用して練り清める模範的な信仰者

それにしても、サタンに「ヨブはいい状況にいるから神を讃えてるだけっすよ」と言われて、「ほな試してみたら。殺さんようにな」と言う神様もどうなんだ…と思いますよね。実際ここに怒る人も多いでしょう。

ここについては、神が全知全能であるという点から、サタンがどのようにヨブを試しても、ヨブがそれに耐えて最後にはより強い信仰を取り戻して立ち直ることを知っておられる。というのがポイントなのでしょう。

たとえば、戦争も犯罪もない非常に平和な世界で、「人のものを盗ってはいけません」「人に危害を加えてはいけません」と、善を言うのはある意味で簡単なことです。

しかし、これが戦争中の場所や、悪が支配する場ではどうでしょう。

おそらく普通の人間には困難でしょうし、聖書のなかでもそれはある意味で容認というか、無理もないこととして見られている節があります。罪ではあるけど、そのような困難な状況下であったことを鑑みて赦される余地があるという見られ方をしている感じです。

そのような状況下でも善を選び取れる人を、我々人間は地上で見ると驚き、敬ったり、理想主義のバカだとあざけったりするわけです。しかし、それは聖書の神からは非常に高いものとして見られるというのです。

善の中にある善よりも、悪に取り巻かれた中で善を保つことがより高い者なのです。

14世紀のドミニコ会神父ヨハネス・タウラーが説教のなかでこのように言います。

人間は「非類似」の状態においてますます成長し、「類似」の状態における以上に、神に自分がはるかに忠実であることを知ることができます。
( 行路社 /『中世ドイツ神秘主義 タウラー全説教集 第1巻』/ オイゲン・ルカ 橋本裕明 訳 / 説教7-P117 )

つまり、聖書の神の言う規範や規律、善や倫理、そうしたものに取り囲まれた世界(類似の世界)ではなく、そうしたものを否定するような価値観(非類似の世界)において、神との類似を輝かせることのできる個人がより高いものとされているわけです。

そして、それができる者であると見込まれたヨブであったからこそ、彼にはあれほど苛烈な責め苦をも神は許可された。という理解が成り立ち、これがつまり神によって「練り清められる」。という概念になります。

こう理解すると、最初に神がヨブを正しい者と言った上で試練に合わせる流れの意義が見えてきます。

そして事実、ヨブは最終的に与えられた苦難をも超えて、神に信頼しへりくだる、極限まで高められた信仰者の姿を見せるのです。

確かにヨブに与えられた試練はひどいですが、それは我々がヨブをすごい信仰者であると認めるためにも必要であり、また、そのように計画された神の業は、地上においてヨブほど正しいものは他にないと、最大の賛辞を与えるヨブへの信頼があってこそ。

一概にひどいだけの話とも言い難い深みがあるでしょう。ひどいはひどいけど。

— 余談 —

注意が必要なのは、ここで言う「神からの試練」というのは、人間が生きていれば避けられないような不条理、病気やケガ、障害や一般的な世俗的苦難のことではなく、前述したような倫理や善に反することについてです。

例えば究極的には、ナチス政権下で大衆が皆ユダヤ人の虐殺を容認する中で反対するとか。より身近な例をあげるなら、いじめを見て見ぬふりをしないとか、自分が嫉妬や妬みといった暗い感情に囚われた時に、それを退けることができるか。ということです。

たまに「神は乗り越えられない試練を与えない(コリントの信徒への手紙1の10章13節)」と、病にかかった方やその周辺の人がおっしゃられることがありますが、あれは誤用であると思います。

そういった誰しもにありうる不幸について、そんなに気丈に振る舞わなくていいんです。人が乗り越えられないような不条理に見舞われることは実際にあり、現実的に対処しようと試み、存分に嘆き、怒り、どうにかしてくれと訴えるべきなのです*。神に認められた正しい人ヨブですらそうしているのですから。
* 詩編の嘆きの詩や、各書において神に嘆き訴える登場人物が義とされることは多々あります。キルケゴールの『キリスト教の修練』(新教出版社 / 井上良雄 訳)第三部P217

ただ、聖書においては、信仰を持っている人はその報いを必ず(地上でか天においてかは分からないけど)与えて下さると信じる。というのです。信仰の有無による差はただ、絶望か希望をもつかという点に集約されています。

ヨブ記解釈まとめ

以上から、ヨブ記というのは

  • 信仰者にとって、つらい時にいつもそばにいてくれる「同労者」としての姿
  • 地上の生活の後にある、天上での報いへの期待を指し示す「証言者」としての姿
  • 神から与えられた試練によって練り清められ、より高い者となっていく模範としての「信仰者」の姿

という、三つの姿をもって描かれるヨブの物語と言えるでしょう。

信仰の前提を抜きに考えると、勘違いや歪んだ受け取りになってしまうので、難しい書であると言われます。

しかし、詩編における嘆きの詩と同じように、困難な時期に寄り添う同労者としてのヨブの姿に慰められ、証言者としてのヨブに励まされ、そして模範としての信仰者であるヨブに倣って行こうと思わされる。そんな深い内容を語っているのがヨブ記なのです。

動画